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~彼女のキロクを継ぐ僕のキロク~

彼女のキロク【2011・2】

2011年2月メモ
今はこれらのエネルギーもいろいろ変貌を遂げている

 

*~*~*

集合体「私が一番大変!」誰しもがあると思う・・・。
大変なことが起きたときに 他の人・・・となりの芝生と比べること。

 

自分のココロの中で あの人のほうが大変だから 頑張ろう・・・とか
まだ あの人のほうがマシ いいじゃない!

「自分の心の平穏のために」そう思うのならいいのかもしれない。

ただ あたしは基本的には そういうのって人と比べることじゃないと 思うんだよね。

 

あなたが思う【あの人】はあなたの見方からしたら そう見えるのであって
本人にとってはとてもしんどいことだろうし 耐えられないことかも しれない。

 

【あの人】が思うあなたは 【あの人】での見方であってそう見えてるだけで
あなたが経験してるのは あなたにとって精いっぱいのことかもしれない。


つまり その経験をしてるのは本人であって
体験をどう捉えるか どう感じているか どんな状態かは

その体験者のみが感じることだ。

 

他者は あくまでも その他者の体験や環境から来る想像の域を 出ないということ。


AさんとBさんがいて同じ体験をしても感じ方はそれぞれで
Aさんが耐えられなかったとしても
別の同じ体験をしたらBさんのほうが 耐えられないことだってあるだろう。

何故 こんなくどくどと説明をしたのかというとある人を思い出したからだ。


例えば 誰しもが生きていたら
もう耐えられないかもしれないという喪失体験だったり
裏切りや騙されたり そんな体験は あるよね・・・?!

 

また これは同じ体験をしないとわかんないわよ!って いう強烈な経験だったとしても

だからこそ 同じような境遇の経験をすれば 辛い気持ちは 本人ではなくても わかる
・・・みたいなことってあると思う。

 


それで その人はいつも「私が一番大変」って感じだった。
似たような体験をした人が 体験談を話す・・・と


「でも 私の場合は~だから」 年数や回数で傷の深さをはかっていたんだ。
私の中には 何だろうなぁ・・・なにかが違うよなという違和感があったんだ。
それが 「私が一番大変」っていう証明をしたいんだということに 気づいた。


例えば 喪失体験をしたら 同じ喪失体験をした人は
傷があることを認めたうえで 隣の芝生を比べる・・・を

無意識に しているんじゃないかと思う。

 

しかし その人は 同じ傷がある人をバッサリ切るんだ。
でもわたしは~だから 辛いの。
(あなたは たった1回じゃない?・・・とか まだ1か月じゃないとか)
相手を見下しているような態度が言葉の端々に出るんだ。


※ピアカウンセリング※って 大切だと思うんだ。
だから 似た経験をして せっかく 私はこう考える・・・とか
こう乗り越えようとしてる・・・という話は 素通りして 話した方が

傷つくみたいな感じになる・・・。


※ ピア(Peer)とは「仲間」という意味。
何らかの共通点(同じような環境や悩み)を持つ(又は経験した)グループ間で、
対等な立場で同じ仲間として行われるカウンセリング。

仲間からサポートされていると感じる場に居ることで、
効果的に援助し合ったり、悩みの解決につながったり出来る。
自助グループやカウンセリングじゃない・・・けど
似た体験をした人が 話すことで癒されるということも あると思う。

 

あたしは傷に回数や時間は関係ないと思う。

 

その人から見たら ちっちゃい傷だって
たった1度だったとしても 本人にとっては「たった」じゃなくて
「なければよかった」って思うくらいの できれば経験したくなかったよ
・・・っていう「傷」なんだよね。

そうして その人は ずっとその過去に生きている。

だから 永遠 時間が増えて 回数も増えて それ以上の人は 現れないし
現れたら でもわたしは~だからと 別の理由を見つけられる。


あたしだって今まで生きてきた中で すり傷やきり傷

それこそ 致命傷になりかねない傷だって出来た。

 

たしかに傷が出来たのは痛かったし 大変かもしれないけど あたしは

傷を傷のまま終わらせたくない・・・と思ってる。

 

それからいっぱい学べたし 前よりは思慮深くなったと思うし
自分で自分を認められるようにもなってきた。


その時はぐちゃぐちゃでも どんなに苦しかろうが
堕ちていこうが 愚痴愚痴言おうが ぐるぐる気が済むまで
ダメダメな自分とも付き合って ず―――っと向きあったり
逃げたり 休んだり 倒れこんだり 自分を持てあましたりして

そうしてやってきて 今は 【愛すべき傷跡】になっていて

「私の歴史ぃ」って 思っているんだ。

 

だから人があんまり ぐるぐるしていても本人の気が済むまで

やればいいんじゃん!?って思ってるの。

 

だけど やっぱり 人を蹴落としてまで 傷つけて
「私が一番大変!」を証明したいってどうなんだろう・・・と思ってた。

 

・・・で 気づいた。

 

やっぱり 人から 認められたいってことだよね。

 

「こんなに大変な私」を誰か 愛して下さい!
ここに 私は存在してるんだって 承認してください!!!

・・・そういう叫びが聞こえたんだ。

 

だってね うまいこと出来てるなぁと思ったのは
その人は ずっと「私が一番大変なの!」って言い続けられる 環境が整ってるんだわ。

まわりはどんどん変わっていくの。

 

傷ついて 倒れ込んでも・・・この3次元で生きていくためには

生活をしなければいけないから。
傷つきながらも お金を稼いで ご飯を食べて 眠る。

これをしないと物理的な【死】が待っているから・・・。

逆に本当に追い込まれてる人は 傷も痛みも 強みに変える。

 

そこから何かに気づいて 自分にとって何が必要かを 本当に大切にするものを

選択する。

もうダメだ~って 思った時がチャンス~!ではなくて
ちょっと目線を変えたら 幸せはそこここにあるのに と思っていたんだけど
そして たまにああすればよかったかな・・・とか思いながら
でもこうして良かったこともあるなと思いながら
人生ってそんなこんな風に生きていくんだろうな・・・と思っていた。


だけど どんなに壮絶な人生の人が目の前にやってきても
なんだかんだ 自分の都合いいようにとって 「もうダメだ~!」という大変な私を
ずっと証明し続ける・・・という生き方。


結局・・・どういう面が出ているかの違いで
「その人の存在意義」みたいなものを自分ではない誰かに 承認して貰いたいのかな

「いいんだよ、あなたはあなたのままでOKよ」

そういうことなのかな・・・と思ったの。

 

いろんな考え方 いろんな生き方 それでも あなたもわたしも ここに在るんだ。