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~彼女のキロクを継ぐ僕のキロク~

2015年6月2日(火)

2015年6月1日(月)の一部抜粋

ざっとネットを流して見た

いくつか【引き裂かれるような痛み】に普及してあった

解釈的には

最初に分離したとされる、つまり分かれてこの世にやってくる

最初の記憶を思い出して 肉体を持って再体験している、というもの

たしかに・・・そういう解釈になるだろう

物語を何も考えずただ打ち込みしていたと同時

私の場合(2014・4・29)

どちらかと言うと 重なって交わってしまったものをひっぺ返す

それは己の命をかけた(落としても)

この身が滅びようとも・・・と

その後からのザッと入ってくる【無・黒】

そこへと向かう知覚の無いまま

個が成った

その個としての“欲”を見せつけられた

個があるならば すでに エゴの無でなく

【無・黒】へ向かいたい・・・と望むは同時に存在しえない

個=エゴ=魂=躯体

例えるならば

今すぐにでも眠りにオチタイ。

眠くて眠くてそれだけを欲している・・・時に

ソレが欲しいならば

今から永遠、眠らずに居たのなら望みを叶えよう

例えレイコンマ1秒でも、意識がオチタのなら

望みは手に入らない

こんな感じのムリだろー反目・きっ抗・対立を同時にかなえようとするものだ

そしてその間に何もしなくても

罠にハマる・・・か、あきらめてしまうか

ムリだろーという概念が生まれるまで じっとしていれば

勝手に個は墜ちていく

ソレすら「中」にあると・・・分かる体験をしたあとは

ソレはただの脚本となる

言葉のみだと誤解が生じると分かっていながら

書いてみると 「中」エゴ(知覚=個)を捨て【無・黒】へ向かう

魂という絶対概念・・・を引きずりちぎる

それは執着という名の喪失・・・これから起こる演習だったのかも、

今から思えば

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2015年6月2日(火)

(一部抜粋)

観念・概念記事をまとめて整理している

ほぼ1年ぶりにインク(あまぞん)を買ってみたので

めずらしく印刷をしてみる

が・・・しかしオッズだ

A4紙が途中で切れた

2面印刷にしたのだけど両面印刷にすればよかったかも;

B5紙が沢山あったのでそっちに移行。

その間 ふと思ったコトをキロク

ただネットを見ているだけだと己の視点でしか見えないもの

結局のトコロ、限界がある

消した→個別に応えるめんどい→経緯メモ→己に無い他者の視点を知った

これが1点

“脚本”を見るという意味では自ら何も発信せず

Aブロ(本来かなりバラけているため)繋がる機能や板などのやり取りなどを見る

色々確認するのがより多くのバージョンを知ることができるのだろう

それが知らず知らず「中」へと戻されない知恵でもあるのだろう

究極的に同じ意見だといったブログを久しぶりに訪れた

2015・5・28~以降

明らかに自動ツールではない糾弾コメが増えていた

それを見ると 中のえがく“脚本”が分かりやすく見えてくるなと思った

これが2点目

というコトで ココのキロクは今日(2015年6月2日現在)

私にとって メインであることに変わらず

敢えて 別の目的で 以前のメインを

元の名前に戻し 他者に向けて記事は書かずメモとして・・・的だみ―

書き込みができるようにして・・・どうなるか見ようと思う

なければ、それはそれ・・・。

*Riはどうやら

私が究極的に同じ意見だといったブログの観念を取り入れて模倣している模様

言葉が同じ(たぐがひっかからないように別言葉にするとおのれめも)だから

うう?と気づく

さらに 周りがおかしいらしい

沢山の知覚を持ったまま漠然と死んだら無になるというのと

そっか!そう言う概念があるのか、と他者から 知り 死んだら無だという概念を採用とは別に

まずは個として 発端となる強烈な何か、腑に落ちる究極体験が成されなければ

我思うに観念を取り入れている状況は「中」に閉じ込めておく脚本になるだろう

発端となる強烈な何か、腑に落ちる究極体験の後に

揺るがない信念をあらためて知る そうして観念となる

観念が、概念となり

概念は脚本に沿ってはなく 脚本でしかない、とただの観念を超えてゆく

その先はもうなにもかもどうでもよくなる

どうでもいい・・・は言葉としては同じだ

あるいは

輪廻はない 死んだら無だという概念を採用して

今現在・・・にフォーカスして今生(時間)を適当に流す・・・これが一番ラクな生き方だろうな

ココまで キロク

(2015・6・2 14:55)

これから元メインを開ける

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